当然だが、私は私にしかなったことがない。アニメやドラマでは、何かの拍子で二人の人間が入れ替わる、なんてストーリーがよくあるけれど、他の人になって見た世界はどんななのか?という永遠の謎がそういったフィクションを産むのだろう。
アニメやドラマのように、もし他者と入れ替わることができれば、その相手になるわけだから、相手の感覚をありありと直接体感できる。しかし、実際の私たちは、あらゆる情報を自分を通してしか受け取れない。自分が見ている世界は誰にとっても確かで疑いようがないために、ひとは、他者も自分と同じ世界にいると思いがちであるが、自分の見えと他者の見えは同じではない。私たちは、自分と同じように他者も物事を見ていると思って暮らしている。
自分でしかいられない私たちが、主観で思考し、自分自身に意識が集中するのは当然のことだし、だからこそ内省という人間らしい作業もできる。しかし、ともすると、自分でしかいられないということは、自分が一人で存在しているような感覚にもなりやすい。内へ内へと視野も狭まりがちである。人間が他者との関係性の中で生きている存在であることを、たまに意識して思い出してあげると、部分から全体へなんとなく解放されて、少しのびのびするように思う。
世界に一人しかいないユニークな私たちであるが、そのユニークな一人は決して一人では生きていない。好むと好まざるとに関わらずシステムの中、家族や友人、帰属集団(自分が通ったり所属している集団)という全体の中で、いわば関係にまみれて暮らしている。だから、一人の人間を理解するためには、その人を取り巻くシステム全体を見ることで、特定のその人の心や性格の問題という狭い視野から、システム全体の状態へと理解が広がり、様々な現象を全体的に捉えることができるようになるのである。自分自身に関しても同様のことが言える。自分にだけスポットライトを当て続けてもいつもの自分しか見えないが、自分を含む人間関係のシステム全体をながめることで、いつもと違う自分をその中に発見するかもしれない。
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